車両案内「キハ20 443」
<現在の姿>※2019年現在は再塗装作業中です。

<車両解説>
キハ20 443号は、日本車輌製造株式会社で製造され、二俣線の車庫であった遠江二俣機関区(現・天浜線の車庫)に昭和37年1月21日に新車として配置されました。
それから二俣線一筋に24年以上も走り続け、二俣線最終日を迎えました。走行距離は2,061,328キロにも及び、掛川-豊橋間の往復に換算すると約13,000往復です。
地域の皆さんのいろんな生活を見守ってきました。また、いろんな思い出が詰まっていることでしょう。
それから二俣線一筋に24年以上も走り続け、二俣線最終日を迎えました。走行距離は2,061,328キロにも及び、掛川-豊橋間の往復に換算すると約13,000往復です。
地域の皆さんのいろんな生活を見守ってきました。また、いろんな思い出が詰まっていることでしょう。
<修復前の姿>

車両案内「ナハネ20 347」
<現在の姿>※2019年現在は再塗装作業中です。

<車両解説>
ナハネ20 347号は、昭和45年、日本車輌製造株式会社で製造されました。
「ブルートレイン」という愛称がつけられるきっかけとなった20系客車の中の1形式で、3段式B寝台車です。新製当時は下関運転所に配置され、最終配置は尾久客車区でした。主に「あさかぜ号」として活躍しました。
20系客車は「走るホテル」とも呼ばれました。それは、快適な車内を実現するために車体寸法を最大限に拡大、大きな固定式ガラス窓と冷暖房を完備しており、当時の生活水準では家庭にクーラーなど高級品でしたし、長距離移動手段は鉄道が一般的だったので、寝台特急列車でこれだけの設備は大変喜ばれました。
その優雅な外観からも国鉄車両史上、「名車」と語り継がれています。
「ブルートレイン」という愛称がつけられるきっかけとなった20系客車の中の1形式で、3段式B寝台車です。新製当時は下関運転所に配置され、最終配置は尾久客車区でした。主に「あさかぜ号」として活躍しました。
20系客車は「走るホテル」とも呼ばれました。それは、快適な車内を実現するために車体寸法を最大限に拡大、大きな固定式ガラス窓と冷暖房を完備しており、当時の生活水準では家庭にクーラーなど高級品でしたし、長距離移動手段は鉄道が一般的だったので、寝台特急列車でこれだけの設備は大変喜ばれました。
その優雅な外観からも国鉄車両史上、「名車」と語り継がれています。
<修復前の姿>

車両案内「C58 389」
<現在の姿>
<車両解説>
C58は戦前に製造が始まった、客車・貨物列車兼用の中型の蒸気機関車です。
主にローカル線で活躍していました。愛称は「シゴハチ」です。
C58 389号機は、戦後の1946年(昭和21年)の7月に汽車製造(のちに川崎重工業に吸収合併)の
大阪製作所で製造されて、北海道の苗穂機関区に配置されました。
その後は北海道内の北見と函館機関区に配置区所替えを経て、
1956年(昭和31年)10月からは岐阜県の高山機関区に移り、高山本線を走行していました。
そして、1969(昭和44年)10月、高山本線のSLさよなら列車の花道を飾ります。
同年、遠江二俣機関区に移り、二俣線の客車・貨物列車で「C58らしい」活躍をして、
1971(昭和46年)4月23日に同区で現役を引退しました。
前月は二俣線のSLさよなら運転がありました。
戦後の混乱期に製造されて、復興期を経て、高度経済成長期を迎え、鉄道が欠かすことのできない
社会基盤の一つとして歩みゆくなかに、「無煙化」がありました。
時代とともに走り続けてきた蒸気機関車です。 なお、展示場所は、キハ20 443・ナハネ20 347とは別に、天竜二俣駅の改札を出て正面の、 「機関車公園」です。運転室の見学ができます。
空き缶などのごみは持ち帰る、破損はしない、といった見学マナーを守りましょう。
主にローカル線で活躍していました。愛称は「シゴハチ」です。
C58 389号機は、戦後の1946年(昭和21年)の7月に汽車製造(のちに川崎重工業に吸収合併)の
大阪製作所で製造されて、北海道の苗穂機関区に配置されました。
その後は北海道内の北見と函館機関区に配置区所替えを経て、
1956年(昭和31年)10月からは岐阜県の高山機関区に移り、高山本線を走行していました。
そして、1969(昭和44年)10月、高山本線のSLさよなら列車の花道を飾ります。
同年、遠江二俣機関区に移り、二俣線の客車・貨物列車で「C58らしい」活躍をして、
1971(昭和46年)4月23日に同区で現役を引退しました。
前月は二俣線のSLさよなら運転がありました。
戦後の混乱期に製造されて、復興期を経て、高度経済成長期を迎え、鉄道が欠かすことのできない
社会基盤の一つとして歩みゆくなかに、「無煙化」がありました。
時代とともに走り続けてきた蒸気機関車です。 なお、展示場所は、キハ20 443・ナハネ20 347とは別に、天竜二俣駅の改札を出て正面の、 「機関車公園」です。運転室の見学ができます。
空き缶などのごみは持ち帰る、破損はしない、といった見学マナーを守りましょう。
<修復前の姿>

車両案内「C20-32339」
<現在の姿>
<車両解説>
C20形式コンテナは、旧国鉄時代、貨物列車のコンテナ化が進められる中で、
1971(昭和46年)から1980(昭和55年)の間でのべ37,934個が製作されました。
「国鉄コンテナ」のあゆみで多種多様な形式が活躍した中でも、代表的な形式です。
天竜にあるC20-32339は、1978年から1979(昭和54年)に製作されたうちの一つです。
大量に製作されたので改良がなされているほか、製作時期や製作メーカーによって、
細部にわたって差異が見られます。
「国鉄コンテナ」の色といえば、このウグイス色をイメージする方が大半ではないでしょうか。
このコンテナが天竜にやって来るまでのストーリーを・・・。
クラブ内では昔から、活動用の資材保管をするためにいいものは無いか考えていました。
欲しいものはすぐに見つかり、(貨物列車の)「コンテナ!」となりました。やっぱり(笑)
けれども、中古でも結構な値段がします。輸送はどうやって?など、次々と考えるべきことが
出てきました。
それでも、粘り強く探していたとき、石川県内で主に活動されている団体さんから
お声がけをいただき、ある会社様をご紹介してもらえました。
そこからのご縁で、「あのコンテナはどうか」とか、候補となるものをいくつかお聞きした中で、
富山県内にあるコンテナを教えてもらいました。
・・・?このコンテナ、初めて見る気がしません。メンバーが10年以上前に鉄道旅行で
訪れたとき、「珍しそうだ」と写真に撮っていました。
こうなるともう、このコンテナを入手するためにどうするか?どうやって直すか?を
考えるようになってきます。
搬出入の時期や費用面などの打ち合わせなど、やることはたくさんあります。
まずは、搬出まで時間があるので、実際に現地に行って修復を始めました。
そうすれば搬入したあとでの修復が楽になるのと、そもそも、設置目的が活動用の倉庫ですから、
できるだけ早く使えるようにしないといけない、という事情がありました。
搬入して間もなく、機関車公園のSL化粧直しの計画が出てきたこともあって、
限られた時間・人数の中で進行しました。
外観は、できるだけ当時に近づけるように努力しました。内部は、実用的な棚の作り方が
考えられました。
見学者やメンバーから見ても喜ばれて、実用にしっかり活躍できるというコンテナです。
コンテナまで外観をできるだけ当時のものに近づけるように修復した団体さんは、
少ないのではないでしょうか。
修復が一段落して使用開始すると、活動の環境は一気に向上しました。
まだまだ改善できることがありますので、もっと良くするために少しずつ進めています。
最後に、このコンテナをお迎えするために、ご尽力くださった各方面の皆々様と、
修復を頑張ってくれたメンバーのみなさんに、この場を借りてお礼いたします。
「国鉄コンテナ」のあゆみで多種多様な形式が活躍した中でも、代表的な形式です。
天竜にあるC20-32339は、1978年から1979(昭和54年)に製作されたうちの一つです。
大量に製作されたので改良がなされているほか、製作時期や製作メーカーによって、
細部にわたって差異が見られます。
「国鉄コンテナ」の色といえば、このウグイス色をイメージする方が大半ではないでしょうか。
このコンテナが天竜にやって来るまでのストーリーを・・・。
クラブ内では昔から、活動用の資材保管をするためにいいものは無いか考えていました。
欲しいものはすぐに見つかり、(貨物列車の)「コンテナ!」となりました。やっぱり(笑)
けれども、中古でも結構な値段がします。輸送はどうやって?など、次々と考えるべきことが
出てきました。
それでも、粘り強く探していたとき、石川県内で主に活動されている団体さんから
お声がけをいただき、ある会社様をご紹介してもらえました。
そこからのご縁で、「あのコンテナはどうか」とか、候補となるものをいくつかお聞きした中で、
富山県内にあるコンテナを教えてもらいました。
・・・?このコンテナ、初めて見る気がしません。メンバーが10年以上前に鉄道旅行で
訪れたとき、「珍しそうだ」と写真に撮っていました。
こうなるともう、このコンテナを入手するためにどうするか?どうやって直すか?を
考えるようになってきます。
搬出入の時期や費用面などの打ち合わせなど、やることはたくさんあります。
まずは、搬出まで時間があるので、実際に現地に行って修復を始めました。
そうすれば搬入したあとでの修復が楽になるのと、そもそも、設置目的が活動用の倉庫ですから、
できるだけ早く使えるようにしないといけない、という事情がありました。
搬入して間もなく、機関車公園のSL化粧直しの計画が出てきたこともあって、
限られた時間・人数の中で進行しました。
外観は、できるだけ当時に近づけるように努力しました。内部は、実用的な棚の作り方が
考えられました。
見学者やメンバーから見ても喜ばれて、実用にしっかり活躍できるというコンテナです。
コンテナまで外観をできるだけ当時のものに近づけるように修復した団体さんは、
少ないのではないでしょうか。
修復が一段落して使用開始すると、活動の環境は一気に向上しました。
まだまだ改善できることがありますので、もっと良くするために少しずつ進めています。
最後に、このコンテナをお迎えするために、ご尽力くださった各方面の皆々様と、
修復を頑張ってくれたメンバーのみなさんに、この場を借りてお礼いたします。